エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト

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エーリヒ・ヴォルフガング・
コルンゴルト
Erich Wolfgang Korngold
基本情報
生誕 1897年5月29日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ブリュン
死没 (1957-11-29) 1957年11月29日(60歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス
ジャンル クラシック音楽、映画音楽
職業 作曲家

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト[1](Erich Wolfgang Korngold, 1897年5月29日 - 1957年11月29日)はオーストリアアメリカ合衆国で活躍した作曲家ユダヤ系

神童として

彼は音楽評論家ユリウスの次男として、モラヴィア地方のブリュン(現在はチェコのブルノ)に生まれた。幼い頃から作曲の才能を示し、モーツァルトと同じ名前と相まって「モーツァルトの再来」と呼ばれる程の神童ぶりであった。9歳の時に作曲したカンタータを聴いたマーラーは、「天才だ!」と叫び、11歳の時に作曲してツェムリンスキーがオーケストレーションを手伝ったバレエ音楽『雪だるま』(Der Schneemann)はウィーン宮廷歌劇場で皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の御前演奏として初演され、万雷の拍手をもって迎えられた。

その後も快進撃は続き、12歳で書いた『ピアノ・ソナタ第1番』はリヒャルト・シュトラウスに戦慄と恐怖を与え、名ピアニスト、シュナーベルは13歳の作品『ピアノ・ソナタ第2番』をヨーロッパ中に紹介し、ベルリン・フィルの大指揮者ニキシュは14歳のコルンゴルトに『劇的序曲』を委嘱する。幼少時の『シンフォニエッタ』を完成させた15歳の頃には、コルンゴルトは既にプロ作曲家として第一線で活躍していたのである。

頂点から亡命へ

16~18歳で書いたオペラ、『ポリクラテスの指環』(Der Ring des Polykrates)、『ヴィオランタ』(Violanta)はプッチーニの絶賛を受け、この成功によってオペラ作曲家としての地位を確立し、1920年、オペラ『死の都』(Die tote Stadt)の大成功によって、23歳にしてオペラ作曲家としての世界的評価を確立する。1927年、満を持して作曲したオペラ『ヘリアーネの奇跡』(Das Wunder der Heliane)を初演した当時、コルンゴルトの名声は頂点に達し、ウィーン市から芸術勲章を、オーストリア大統領からはウィーン音楽大学名誉教授の称号を贈られ、さらに1932年、大新聞『新ウィーン日報』のアンケートで、シェーンベルクと並んで存命する最高の作曲家に選ばれた。その後、管弦楽曲、室内楽曲、歌曲、編曲と旺盛な音楽活動が続き、結局この時期が事実上、作曲家コルンゴルトの絶頂期であった。

1926年ザルツブルク音楽祭で新進の音楽プロデューサーマックス・ラインハルトと知り合い、彼の要請でヨハン・シュトラウスオペレッタこうもり』をミュージカルに編曲。ニューヨークでのブロードウェー公演の成功が縁となり、1934年、ラインハルトの招請でハリウッドに赴き、シェイクスピア原作の映画『真夏の夜の夢』の映画音楽として、メンデルスゾーンの同名の劇音楽の編曲を行い、関係者の称賛を浴びる。

映画音楽と云う新しいジャンルに足を踏み入れたコルンゴルトであったが、この頃から彼の名声に陰りが出始める。その後、ウィーンとハリウッドを往復する日々を送りながら、『ヘリアーネの奇跡』以来久しぶりのオペラ『カトリーン』(Die Kathrin)を書き上げ、初演を間近に控えていた1938年ナチス・ドイツオーストリア併合により、『カトリーン』初演は流れ、ユダヤ系だったコルンゴルトはアメリカに亡命し、仕方なく映画音楽を書きながら亡命生活を送るよりなかった。亡命の際には多くの自筆譜をオーストリアに残してしまったが、友人の協力のおかげでそのほとんどを持ち出すことができ、持ち出せなかった曲も、記憶を元に復元した。

映画音楽との出合い

生活のためにオペラを諦め、映画音楽を書くことになったが、それでも美しい旋律、優れた管弦楽法は、緩みきった映画音楽業界に革命をもたらした。経営者側は彼のために高額な契約を結んだが、年間2作の作曲でよく、しかも旧来の作品の引用は自由と云う破格の待遇を与えていた。

1935年に、初期の傑作『海賊ブラッド』(Captain Blood)を書き大絶賛された翌年、1936年に『風雲児アドヴァース』(Anthony Adverse)でアカデミー作曲賞を受賞。40以上のライトモチーフを使い、オペラ並みの作品に仕上げている。ただ、あまりにも出来が良すぎて、賞はワーナーの音楽部門全体に贈られ、オスカーは音楽部長が受け取ってしまった。1938年には『ロビンフッドの冒険』で2度目のアカデミー賞に輝く(今度はコルンゴルト自身がオスカーを獲得)。コルンゴルトは最初、この作品のスコアを書くのを断ったのだが、ワーナー音楽部長の説得とナチス・ドイツによるオーストリア併合により仕方なく引き受け、オスカー獲得につながった。

映画音楽家としてのコルンゴルト

コルンゴルトは映画音楽作曲をオペラ創作の延長上に見なしており、ロベルト・フックスやマーラー、リヒャルト・シュトラウスから直接学んだ後期ロマン派的作風を、そのまま映画音楽に持ち込んだ。また、気に入った映画音楽は自作の芸術音楽に転用できる権利も保有していた(実際、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲第3番などが作曲された)。大管弦楽団を使ったシンフォニック・スコアは、後のハリウッド映画音楽の基礎となり、映画音楽の先輩にあたるアルフレッド・ニューマンや、後世のジョン・ウィリアムズにも多大なる影響を与えた。

大戦後~忘却の晩年

ヒトラーが倒れるまで純粋な音楽作品の創作を封印していたコルンゴルトにとって、第2次世界大戦の終結は転機となった。

1946年、『愛憎の曲』(Deception)を最後に、純音楽作曲家に戻るべく、新作を携えウィーンを訪れるも、当時の映画音楽に対する評価の低さや、後期ロマン派的作風は前衛音楽全盛の音楽業界から受け容れられず、「映画に魂を売った下等な作曲家」というレッテルを張られて事実上ウィーンの楽壇から抹殺され、失意の内にハリウッドに戻り、不遇の中、同地で1957年、脳出血で死去。二曲目の交響曲を作曲中だった。遺体はハリウッドのハリウッド・フォーエバー墓地に埋葬されている。

戦後の主要作品としてヴァイオリン協奏曲ハイフェッツが世界初演し、その後も愛奏した)、弦楽合奏のための交響的セレナード、交響曲フランクリン・ルーズベルトの思い出に捧げられた)、主題と変奏(事実上最後の作品)などが挙げられる。

再評価

没後の再評価は1970年代、彼自身の映画音楽から始まった。二男のジョージ・コーンゴールドがプロデュースした、チャールズ・ゲルハルト指揮、ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団演奏による映画音楽集のレコードが良好な売れ行きを示した頃から、コルンゴルトの音楽の再評価が始まる。前記したように、ジョン・ウィリアムズなどの、シンフォニックタイプの作曲家に与えた影響は大きい。

また、ラインスドルフ指揮によるオペラ『死の都』、ケンペ指揮による『交響曲嬰ヘ調』のレコード等で、彼のクラシック音楽の再評価も始まるなど、『コルンゴルト・ルネッサンス』の端緒がここに始まった。

現在、欧米においてはコルンゴルトに対する偏見は少なくなり、20世紀のクラシック音楽の作曲家の一人として、その作品は多くのCDがリリースされ、一流演奏家もコンサートで取り上げている。

主要な作品

外部リンク

脚注

  1. エリック・ウォルフガング・コーンゴールド」と英語式の呼称で表記される事もある他、英独の発音を混同した「コルンゴルド」、「コルンゴールド」などと呼ぶ人もいるが、一般的には舞台ドイツ語発音に基く「コルンゴルト」という表記が定着している。ドイツ語の現代的発音を考慮すれば「コアンゴルト」「コーンゴルト」といった表記も考えられる。
  2. Star Wars vs Kings Row - Youtube