エルベク・ハーン
エルベク・ニグレスクチ・ハーン(モンゴル語: Элбэг нигүүлсэгч хаан、Elbeg nigülesügči Qaγan、ᠡᠯᠪᠡᠭ
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ᠬᠠᠭᠠᠨ、1362年 - 1399年)は、モンゴルの第20代ハーン。漢字表記は額勒伯克。
Contents
生涯
エルベク・ハーンの父については諸説あるが、「33歳で戌年(1394年)に即位した」という記述から逆算して、1362年に生まれたと考えられている[1]。
後述するようにマイダリ・バラと同一人物とすると、1370年には応昌の陥落によって明軍の捕虜となり、明朝の首都南京で過ごすこととなった。1374年には釈放されてモンゴル高原に帰還している。
戌年(1394年)、先代のエンケ・ハーンが亡くなったため、同年にエルベクは33歳で帝位についた。先々代のジョリクト・ハーン(イェスデル)はアリク・ブケ家の人物でありながらクビライ家の嫡統ウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)を弑逆して帝位についており、この頃の北元社会は帝位を巡って非常に不安定な情勢にあった。
1399年、「雪のように肌が白く、血のように頬の赤い」絶世の美女を求めていたエルベク・ハーンは、オイラトのジャハ・ミンガン部[2]のゴーハイ太尉に勧められ、息子[3]であるハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジの妻オルジェイト妃子を娶ろうとした。そこでゴーハイ大尉に命じてオルジェイトを連れてこさせようとしたが、オルジェイトが道理に背くことは出来ないと拒否したため、怒ったエルベク・ハーンは息子のハルグチュクを待ち伏せして殺し、無理矢理妊娠3カ月のオルジェイトを娶ってハトゥンとした。
ある日、ゴーハイ大尉はオルジェイトを連れてきた功績によって丞相の称号を受けることになり、その称号を受けるためハーンを待っていたところ、オルジェイト妃子がゴーハイ大尉を呼び付けて睡眠薬を飲ませ、いかにもゴーハイに犯された風を装い、エルベク・ハーンに泣きついた。事に気付いたゴーハイ大尉は馬に乗って逃げたが、エルベク・ハーンに追いつかれて殺された。
エルベク・ハーンがゴーハイ太尉の背の皮を剥がしてオルジェイト皇后の下に帰ると、オルジェイト皇后は皮の脂を舐めて一連の事件はゴーハイ太尉に復讐を果たすため自身が仕掛けた謀略であることを伝え、我が身をどうとでもせよと迫った。しかしオルジェイト皇后の色香に迷ったエルベク・ハーンは皇后を処罰することができず、また「不当にゴーハイ太尉を殺してしまった」と反省し、ゴーハイ太尉の息子バトラ丞相に自らの娘サムル公主を娶せ、ドルベン・オイラト(オイラト部族連合)を率いさせた。
そのころ、オイラトのケレヌート部[4]のオゲチ・ハシハは自分の臣下であったゴーハイが殺されたことや、その息子を勝手に丞相としてオイラトを知行させるエルベク・ハーンの行為に憤慨していた。これを聞いたエルベク・ハーンはバトラ丞相と相談し、オゲチ・ハシハを殺そうとしたが、エルベク・ハーンの正妻コベグンテイ大ハトンによって先にオゲチ・ハシハにこの事が知らされたため、直ちに出陣したオゲチ・ハシハによってエルベク・ハーンは殺害された。オゲチ・ハシハはオルジェイト皇后妃子を娶り、モンゴル国人の大半を支配下に入れた[5]。
エルベク・ハーンの死後、即位したのはアリク・ブケ家のクン・テムルであり、クン・テムルの後ろ盾こそがオゲチ・ハシハであった。また、この政変に伴って皇族のオルジェイ・テムルがモンゴル高原を逃れ、中央アジアのティムール朝の下に亡命している。
出自
エルベク・ハーンの出自については諸説あり、アリク・ブケ家の者と見る説と、クビライ家の者と見る説の2つがある[6]。
アリク・ブケ裔説
岡田英弘らが主張している。『蒙古源流』はエルベク・ハーンを先代のエンケ・ジョリクト・ハーン(アリク・ブケ家のイェスデルの子)の息子としており、これに従ってエルベク・ハーンもアリク・ブケ家の者と見る。ただし、そもそも『蒙古源流』はエンケ・ジョリクト(アリク・ブケ家)をトグス・テムル(クビライ家)の息子にするという誤謬をしており、エンケ・ジョリクトとエルベクの親子関係も俄には信じがたいという意見が主流である。
また、岡田英弘は1404年にサマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使節ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホの旅行記を引用し、そこに記される3人の兄弟の相続争いをアリク・ブケ家のお家騒動と見なし、エルベク・ハーンがアリク・ブケ家の一員である証左であるとしている。
クビライ裔説
本田実信、薄音湖、Buyandelgerらが主張している。エルベク・ハーンの息子(あるいは弟)ハルグチュク・ホンタイジはクビライ家を称するダヤン・ハーンの先祖であり、ハルグチュクの肉親であるエルベク・ハーンもクビライ家の者とするのが正しい、というのが論拠である。また、『黄金史綱』/『蒙古源流』といったモンゴル年代記の主要なテーマはオイラトとモンゴルの対立であり、「オイラトに殺された」エルベク・ハーンはクビライ家の者とするのが合理的である、という意見もある。
近年、Buyandelgerはエルベク・ハーンがビリクト・ハーン(昭宗アユルシリダラ)の息子で、一時明朝の捕虜になり、後に釈放されてモンゴル高原に帰還したマイダリ・バラと同一人物ではないかとする説を主張している。マイダリ・バラは一般的にウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)に比定するのが一般的であるが、年齢から見るとトグス・テムルの一世代後のエルベク・ハーンとする方が合理的であり、また「マイダリMaidari」と「エルベク・ニグレスクチElbeg nigülesügči」はともに「慈しみある者」を意味する名前という共通性がある。
エルベク・ハーン=マイダリ・バラとすると、エルベク・ハーンはアユルシリダラの息子でクビライ家の人物ということになる。『蒙古源流』などの伝える北元ハーンの系図はクビライ家とアリク・ブケ家のハーンが混ざっており信憑性の低いものであるが、エルベク・ハーン=マイダリ・バラと考えると、(1)ウハート・ハーン,(2)ビリクト・ハーン,(3)エルベク・ハーン,(4)ハルグチュク・ホンタイジ,(5)アジャイ・タイジ,(6)アクバルジ・ジノン,(7)ハルグチュク・タイジ,(8)ボルフ・ジノン,(9)ダヤン・ハーンと一本筋の通った系図を描くことができる。
また、Buyandelgerはエルベク・ハーンを巡る一連の抗争を親アリク・ブケ家派のケレヌート(オゲチ・ハシハ、エセク)と親クビライ家派のチョロース(ゴーハイ太尉、バトラ丞相)の抗争と捉え、ゴーハイ太尉の擁立したエルベク・ハーン(クビライ家)の存在に不満を覚えたオゲチ・ハシハがエルベク・ハーンを殺害してアリク・ブケ家のクン・テムルを擁立したのだと解釈した。 [7]
人物
モンゴルの年代記『蒙古源流』『黄金史綱』では、暴君として描かれている。『蒙古源流』によれば、オイラトのゴーハイに唆されて弟のハルグチュク・ドゥーレン・テムルを殺してその妻オルジェイトを奪い取り、さらに夫の敵を討たんとするオルジェイトの策略に乗せられてゴーハイ太尉を殺害した。自らの行いに後悔したエルベクはゴーハイの子バトラに娘と丞相の位を与えが、この厚遇がオゲチ・ハシハの不満を呼び起こし、最終的にオゲチ・ハシハによって殺害された[8]。
また、チャハル部で編纂された年代記『ガンジス河の流れ』では、先代のエンケとエルベクの事績が混同されて、エンケ・エルベクという一人物として記録されている。
脚注
- ↑ 「33歳で即位」は『蒙古源流』に従い、「戌年に即位」は『黄金史綱』に従う。『蒙古源流』はジョリクト・ハーンとエンケ・ハーンを誤って一人の人物(エンケ・ジョリクト・ハーン)としており、その没年は信用できるものではない。エンケ・ジョリクト・ハーンの没年がずれているため、エルベク・ハーンの生年(辛丑年=1361年)、即位年(癸酉年=1393年)も1年ずつずれている(Buyandelger2000,p135)
- ↑ もとのナイマン部で後のチョロース部。チョロース部は後にドルベト部とジュンガル部となる。
- ↑ 『黄金史綱』ではエルベク・ハーンの息子とするが、『蒙古源流』は弟であるとする。「ホンタイジ=皇太子」という称号から見て、実際には息子であるとする説が主流である。
- ↑ もとのケレイト部で後のトルグート部。
- ↑ 岡田 2004,p178-182
- ↑ 井上 2002,p136-137
- ↑ Buyandelger2000,p132-136
- ↑ 『黄金史綱』では、エルベク・ハーンはオゲチ・ハシハとバトラの2人によって殺害されたとされる。
参考文献
- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音德力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6辑、2000年