エドワード3世 (イングランド王)
エドワード3世(Edward III, 1312年11月13日 - 1377年6月21日)は、プランタジネット朝のイングランド王(在位:1327年 - 1377年)。50年間在位し、イングランドを強国に育て上げ、百年戦争を開始した。父はエドワード2世、母はフランス王フィリップ4世の娘イザベラ。妃はエノー伯ギヨーム1世の娘フィリッパ。長男にエドワード黒太子がいる。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は義兄にあたる。
Contents
生涯
即位
1327年、父が母イザベルとその愛人で寵臣だったマーチ伯ロジャー・モーティマーに廃されたため、15歳で即位した。しかし若年のため、しばらくはこの両者による政治の壟断が行なわれた。
1330年3月、エドワードの叔父にあたるケント伯エドマンドがロジャーによって処刑された。国王に無断での処刑に怒ったエドワード3世は、11月に宮廷革命を起こして母とロジャーを逮捕し、母は終身幽閉処分に、ロジャーは死刑にして実権を取り戻した。
前半期の成功
国内の統治を安定化させると、エドワード3世は親征に乗り出し、1333年にスコットランドを制圧、エドワード・ベイリャルを王に立てた。この戦いで敗北したデイヴィッド2世はフランスに逃げ、フィリップ6世に援助を求めている。
エドワード3世の成功は主に軍事による勝利に象徴されることが多いが、内政においてもフランドルの織物技術の導入から国内産業の充実、歩兵中心の常備軍や海軍の拡充、1348年にガーター騎士団を創設して教会に対する統制力も強化し、1366年に教皇庁との封建的主従関係を解消するなどしている。また王の軍費調達の要求を通して庶民院の力を強め、議会政治も発展していくなど、政治手腕も大いに発揮している。
百年戦争の開始
1328年にカペー朝の断絶を受けてフランス王に即位したフィリップ6世に対して、エドワード3世は自身のフランス王位継承を主張した。母がカペー家の王女だったことが理由であるが、これに対しフィリップ6世は、スコットランドと呼応して1337年5月にアキテーヌ公領及びポンチュー伯領の没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めたため、11月にエドワード3世はフランスに宣戦布告した。これにより、百年戦争が開始された。
戦果を簡単に時系列化する。1340年のスロイスの海戦でフランス軍に勝利した。1344年には戦費のやりくりが響いてバルディ家が倒産したが、それまでの数年間フィレンツェ共和国の大銀行は預金を払い戻すことができないでいた。1346年にノルマンディーから上陸したイングランド軍は北上して、エドワード黒太子の活躍もあり、クレシーの戦いでフランス軍に大勝した。この年はネヴィルズ・クロスの戦いでフランスと手を結んだスコットランドに対しても勝利した。
1356年にはポワティエの戦いでもフランス軍に勝利し、フランス王ジャン2世を捕虜にした。このようにフランスに対して優勢にあった1360年には両国の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりに、ガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポンティユー、ギーヌなどの広大な領土を獲得するという、圧倒的に有利なブレティニー条約を締結している。
不遇な晩年
だが、1369年からフランス王シャルル5世の巻き返しが行なわれ、ペストの流行による国内の疲弊や兵力の減少もあって、カレー、ボルドー、バイヨンヌを除いたフランス領土を失う。エドワード黒太子も病に倒れてイングランド軍は有能な指揮官を欠いており、1375年のブリュージュ(ブルッヘ)の和議によってイングランド・フランスの戦争は、いったん終結するものの、前半期にフランスから奪い取った領土の大半を失うに至る。
家庭的にも不幸が相次ぎ、1369年に王妃フィリッパを失った。またエドワード3世自身、相次ぐ不幸と老齢からか、若い頃の果断な指導力や決断力は全く見られず、実権を第四子で三男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに奪われて精彩を欠いた。エドワード黒太子がフランスから帰国すると実権を取り戻して共同して国政改革に取り組んだものの、戦争による赤字財政や情勢の不利などから遅々として進まず、1376年には黒太子を失うに至る。
このため、愛人のアリス・ペラーズを溺愛して政治への介入を招き、イングランド王室は混乱した。1377年6月21日、エドワード3世はシーン離宮で64歳で亡くなった。王位はエドワード黒太子の次男で嫡孫のリチャード2世が継承した。
人物
- エドワード3世はアーサー王伝説に登場する「円卓の騎士」にあこがれ、1348年にガーター騎士団を創設した。また、イングランド王の紋章にフランス王の象徴である百合の花(フルール・ド・リス)を加えたことでも知られる。
- 1337年にイングランドで最も重要な輸出品であった羊毛の輸出および羊毛製品の輸入を禁じるなどして、国内の毛織物産業を大いに振興したことから、「羊毛商人王(The royal wool merchant)」と呼ばれた。
- 前半期は政治・軍事の双方で多大な成功を挙げた賢王だったが、後半期は愛する家族の死が相次いだ事情があるとはいえ、若い頃の聡明さが嘘のように凡庸で、この失政が孫のリチャード2世の悲劇につながったともいえる。
子女
エドワード3世には早世しなかった息子が5人おり、その中でも長男のエドワード黒太子を王太子としてプリンス・オブ・ウェールズに指名していた。また、エドワードにイングランドで最初の公爵位であるコーンウォール公を授けたのをはじめ、他の4人にもクラレンス公、ランカスター公、ヨーク公、グロスター公を叙爵、あるいは相続させた。
エドワード3世の晩年に後継者のエドワード黒太子が病死し、その1年後に自身も亡くなってしまうと、王位はエドワード黒太子の息子のリチャード2世が継承する。この時、リチャード2世はまだ10歳の少年である。この少年王が親政を始める前に、彼ら「有力な叔父たち」は着実に力をつけていく。このことがエドワード3世の子孫たちによる王位継承の争いである薔薇戦争につながった。
後にランカスター朝を開くヘンリー4世はジョン・オブ・ゴーントの血統であり、ヨーク朝の諸王の父や祖父であるヨーク公リチャードはライオネル・オブ・アントワープとエドマンド・オブ・ラングリーの両方の血を引いている。
- エドワード黒太子(1330年 - 1376年) - コーンウォール公、アキテーヌ公、父に先立ち早世。リチャード2世の父。
- イザベラ(1332年 - 1379年) - ソワソン女伯。ベッドフォード伯アンゲラン7世・ド・クシーと結婚、娘マリーはバル公ロベール1世の嗣子であったアンリ・ド・マルルと結婚。
- ジョウン(1333年 - 1348年) - カスティーリャ王ペドロ1世と婚約したが、結婚前にペストで死去した。
- ウィリアム・オブ・ハットフィールド(1337年)
- ライオネル・オブ・アントワープ(1338年 - 1368年) - クラレンス公
- ジョン・オブ・ゴーント(1340年 - 1399年) - ランカスター公、ヘンリー4世の父。ランカスター朝の祖。
- エドマンド・オブ・ラングリー(1341年 - 1402年) - ヨーク公、ヨーク朝の祖。
- ブランシェ(1342年)
- メアリー(1344年 - 1362年) - ブルターニュ公ジャン4世と結婚
- マーガレット(1346年 - 1361年) - 2代ペンブルック伯ジョン・ヘイスティングスと結婚
- ウィリアム・オブ・ウィンザー(1348年)
- トマス・オブ・ウッドストック(1355年 - 1397年) - グロスター公
系図
プランタジネット朝
ランカスター朝
ヨーク朝
エドワード3世が登場する作品
- ウィリアム・シェイクスピア?:戯曲『エドワード三世』
- 蒲生総:漫画『SPLENDOUR OF KING ―ガーター騎士団』 - 死ぬまで青年の姿で描かれており、トレードマークの長髭も描かれていない。
関連項目
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