ウィーン分離派
ウィーン分離派(ウィーンぶんりは, Wiener Secession, Sezession)は、 1897年にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家のグループ。セセッション、ゼツェッシオンともいう。
展示施設を持ち、展覧会の開催を行った。クリムトらはウィーン分離派の活動を通して 新しい造形表現を追求した。ウィーン分離派はミュンヘン分離派(1892年)の結成に影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。
概要
世紀末のウィーンで展示会場を持っていたのはクンストラーハウス(kunstlerhaus)という芸術家団体であった。ウィーンの美術界は印象派の影響もほとんど見られず保守的であったが、その中でもオルブリッヒ、ヨーゼフ・ホフマンらの七人クラブ(Siebenerklub、オットー・ワーグナーの弟子たち)のように若手芸術家グループが生まれていた。
1897年、クンストラーハウスの保守性に不満を持つ若手芸術家らはクリムトを中心に造形美術協会を結成した。クンストラーハウスがこれを認めなかったため、クリムトらはクンストラーハウスを脱退した。こうして生まれたウィーン分離派には絵画、彫刻、工芸、建築などの芸術家が参加した。
1898年、月刊誌「ヴェール・サクルム」(Ver sacrum、聖なる春の意味のラテン語)を刊行し、作家ヘルマン・バールらが執筆した。同年、第1回分離派展を開催。さらにウィーン市の土地を借り、実業家カール・ウィトゲンシュタイン(哲学者ウィトゲンシュタインの父)らの支援を受けて、専用の展示施設、セセッション館(分離派会館)を建設した。会員の建築家オルブリッヒの設計によるもので、入口上部には"DER ZEIT IHRE KUNST,DER KUNST IHRE FREIHEIT"(時代には芸術を、芸術には自由を)のモットーが掲げられた。
1898年-1905年(クリムト脱退まで)の期間に23回の展覧会を開催した。総合芸術を志向した分離派は、工芸品の展示も行い(クンストラーハウスは絵画・彫刻のみで、工芸等の展示は行わなかった)、会場のデザインをホフマンが手掛けた。
ホフマンはウィーン工房の活動を始めたが(1903年)、こうした総合芸術志向に対して、画家ヨーゼフ・エンゲルハルト(Josef Engelhart)ら純粋芸術を志向する会員たちは不満を抱いていた。1905年、画家カール・モル(Carl Moll)がミートケ画廊(Galerie Miethke)の顧問となり、展覧会を企画したことを直接のきっかけとして、商業主義をめぐる論争が起こった。投票が行われた結果、モルをはじめ、クリムト、オットー・ワーグナー、ホフマン、オルブリッヒら24名は脱退した[1]。クリムトらは後にオーストリア芸術家連盟を結成した。
エンゲルハルトら残ったメンバーは胴体分離派と皮肉られた。その後も分離派の活動は続くが、美術史上に残るのは主として1897年-1905年の活動である。
主な展覧会
- 第1回(1898年):造園協会で開催。会員のほか、ロダン、シャヴァンヌ、シュトゥックら国外の作品も出展。フランツ・ヨーゼフ皇帝が会場を訪れた。
- 第2回(1898年):セセッション館で開催。
- 第6回(1900年):アドルフ・フィッシャーが収集した浮世絵・工芸品などの日本美術を出展。
- 第7回(1900年):クリムトの「哲学」(ウィーン大学天井画のために制作)を出展。
- 第8回(1900年):スコットランドの建築家マッキントッシュらを招待。
- 第10回(1901年):クリムトの「医学」(ウィーン大学天井画)を出展。
- 第14回(1902年):マックス・クリンガーのベートーヴェン像(彫刻)の完成を祝して開催。クリムトは壁画「ベートーヴェン・フリーズ」を制作。
- 第18回(1903年):クリムトの回顧展示。
関連する人物
初期分離派
周辺
- アドルフ・ロース:「ヴェール・サクルム」に寄稿。
- エゴン・シーレ:分離派展への出展はクリムト脱退後の1913年、1918年。
- オスカー・ココシュカ
- フェルナン・クノップフ
文献
- 『ウィーン分離派 1898-1918』(宮城県美術館、2001年)
- ネーベハイ、野村太郎訳『クリムト』(美術公論社、1985年)
外部リンク
- 三重県立美術館「[世紀転換期をめぐるウィーン]年譜」[1]
注釈
- ↑ ネーベハイ、P224
関連項目
- アンデパンダン展(1884年)
- ミュンヘン分離派(1892年)
- ゼツェシオン
- アーツ・アンド・クラフツ
- アール・ヌーヴォー
- ユーゲント・シュティール
- フォト・セセッション
- 世紀末ウィーン
- モダニズム建築
- 分離派建築会