インティファーダ

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インティファーダテンプレート:ArL Intifada, Intefadah, Intifadah)とは、アラビア語で「振り落とす」という意味の概念で、「蜂起」「反乱」の意で使用される。アラブ世界でインティファーダと呼ばれるものは幾多ある(ウィキペディア英語版「インティファーダ」曖昧さ回避)が、日本においては通常パレスチナにおけるものを意味する。

パレスチナのインティファーダ

パレスチナのインティファーダは「イスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する2度の民衆蜂起(あるいは抵抗運動)」に対する呼称として一般的に使用される。イスラエル強硬派からは「国際社会を反イスラエルに向けようとするテロ作戦の一環」とみなされ、「蜂起を名目とした不均衡な戦争」として主張されることもある。イスラエルの一部ではインティファーダとそれへの弾圧などにより「強硬な対パレスチナ占領政策」の誤りに気付き、良心的兵役拒否や和平支持などの運動が広がる契機となった。

第1次インティファーダFirst Intifada)は、1987年に発生した。12月9日にガザ地区においてイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、4人の死亡者が出たことがきっかけであった。暴力行為は1991年頃に下火となり、1993年8月のオスロ合意およびパレスチナ自治政府の設立に伴い沈静化した。

第2次インティファーダアル=アクサ・インティファーダ)は、2000年9月28日に発生した。イスラエルのシャロンリクード党首・外相(後に首相)が1,000名の武装した側近と共にアル・アクサモスクに入場したのがきっかけであった。

インターネットを通じてパレスチナの現状とパレスチナ問題に対する国際世論の関心を高めることを目的とした「エレクトロニック・インティファーダ(Electronic Intifada)」という名称のパレスチナの抵抗運動サイトも作られている[1]


2017年頃にはトランプ大統領のエルサレムのイスラエル首都宣言に一般パレスチナ人のパレスチナ自治政府に対する不信感やイスラエル経済への依存の高まりから反発する抗議運動が大規模かつ長期に展開する状況には全くないように無反応に近くなっている。背景にはテルアビブ大学安全保障問題研究所のコビ・ミハイル上席研究員は、「パレスチナは過去2回のインティファーダで大きな代償を払ったにもかかわらず、何も得るものがなかった。自治政府に対する不満は強く、自らの生活を投げ出してまで蜂起しようという人は少ないはずだ」と指摘している[2]

2018年3月2日、ガザ地区を支配するイスラム原理主義組織ハマスは、アメリカがエルサレムをイスラエルの首都と認めたりすれば、「インティファーダ」と呼ばれる民衆蜂起を、パレスチナの人たちに呼びかけると警告した。インティファーダとはイスラエルの占領地においてパレスチナ住民により組織的に展開された占領支配に抵抗する運動である。[3]


イラクのインティファーダ

1991年湾岸戦争直後の3月、イラクの南部でシーア派が、北部ではクルド民族がサッダーム・フセイン政権に反発して大規模な反乱を起こした。これは反乱が起こった年から、1991年インティファーダen:1991 uprisings in Iraq)と呼ばれた。

湾岸戦争の際、クウェート駐留のイラク軍が湾岸戦争の敗退でイラク国内に敗走、その過程で反戦・反フセイン意識がイラク軍内に高揚したことから、一将校がバスラのサッダームの肖像を攻撃したことをきっかけに、急速に国内に反乱が広がった。全国に拡大した反乱勢力は米軍の協力を期待したが、米軍は静観したため兵力を温存したイラク政府軍が3月後半には鎮圧に成功、反乱側は10万人近くが虐殺されたとされる。

2003年のイラク戦争の後、ムクタダー・サドルイラクアメリカ軍による軍事占領の終了を目指し「イラク・インティファーダ(Iraqi Intifada)[4]」と呼ばれる暴動を指揮した。

脚注

関連項目

外部リンク