インターネット・バブル

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インターネット・バブル英語: Internet Bubble)とは、1990年代末期から2000年代初期にかけて、アメリカ合衆国の市場を中心に起った、インターネット関連企業の実需投資や株式投資の異常な高潮である。ITバブルとも呼ばれるが、英語では「dot-com bubble(ドットコム・バブル)」と言う。

ドットコム会社」と呼ばれる多くのIT関連ベンチャーが設立され、1999年から2000年までの足掛け2年間に亘って株価が異常に上昇したが、2001年にはバブルは弾けた。

日本では、1999年2月から2000年11月までの景気拡張期を、景気の名称(通称)で、「ITバブル」の他に、「IT景気」や「ITブーム」などと呼ばれる。また、2000年12月から2002年1月までの、ITバブル崩壊による景気後退期を景気の名称で、「IT不況」や、「第3次平成不況」、「デフレ不況」などと呼ばれる。

背景

1990年代末期に、消費者との直接の双方向的通信を大量に処理できるe-コマースの可能性が現実化し、既存のビジネス・モデルを揺るがせた。このため多くの会社がインターネット関連投資に走り、これらのサービスを提供するIT関連企業に注目が集まった。さらに1998年から1999年にかけて持続した米国の低金利がベンチャー創業資金や投資資金の調達を容易にした。アメリカの大学を卒業したばかりの技術者や冒険起業家たちはプレゼンテーションを配布するだけで多くの資金が集められるようになり、その企画書の多くは投資家達にとって聞いたことの無く説明されても理解できない語句で埋め尽くされていた。多くの起業主旨書は商業的可能性が疑わしく、あるいは技術的可能性について疑わしいものが含まれていた。

株価

通信関連銘柄が多いNASDAQナスダック総合指数1996年には1000前後で推移していたが、1998年9月に1500を、1999年1月には2000を突破し、2000年3月10日には絶頂の5048を示現した。同様の傾向は米国株式市場だけでなく、欧州・アジアや日本の株式市場でも見られた。このような中で株式を公開したベンチャー企業創業者は莫大な富を手にし、シリコンバレーを中心にベンチャー設立ブームに拍車をかけた。米国ではドットコム・ブーム、またはドットコム・バブルと呼ぶ。当時、米国の経済学者はこのような現象を「ニューエコノミー」としてもてはやしたが、その後、連邦準備制度理事会の利上げを契機に株価は急速に崩壊し、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件もあって、2002年には1000台まで下落した。

ITバブル崩壊

このような株価の崩壊のなかで、多くのIT関連ベンチャーは倒産に追い込まれ、2002年の米国IT関連失業者数は56万人に達した。シリコンバレーを中心とした起業支援ファンドは一時的にではあれ縮小や廃止を余儀なくされ、GoogleAmazon.comeBayなど、一部のベンチャー企業のみが生き残った。崩壊後の不況の最中、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカ合衆国の経済は深刻な不況へ突入した。

マイクロソフトインテルデルヒューレット・パッカードなど既存のIT関連事業者、あるいはベライゾンAT&Tモビリティなど通信事業者などの株価も大幅に下落したが、本業が与えられた影響は軽微なものであった。光ケーブルの過剰敷設問題(ダークファイバ)の再燃も懸念されたが、すでに90年代後半の過剰投資の経験から、抑制的に投資されていたこともあり、ITバブル崩壊にともなうダークファイバの不良債権化については懸念されるほどの問題は生じなかった。

世界的影響

欧州諸国のなかでも英語圏で賃金コストが低かった小国アイルランドにIT関連企業の直接投資が相継ぎ、アイルランドはこのブームに乗って「ケルトの奇跡」と呼ばれる経済成長を達成した。バブル崩壊のアイルランド経済への打撃は決定的ではなかった。英語人口が多いインドにもソフトウェア関連の投資が増加し、インド経済に好影響を与えた。

中華人民共和国でも、当時株式公開を行った聯想集団などのIT関連企業の株価はいきなり高値を付けた。その後、これら企業の株価は下落を続けたが、中国のITブームはようやく緒に付いたばかりであったので、大きな打撃を受けることはなかった。

日本

Yahoo! Japan株式会社ソフトバンク楽天サイバーエージェントライブドア(オン・ザ・エッヂ)などが、インターネット企業として興隆した。また米国ハイテク株に投資することを謳い文句とした投資信託商品が組成された。

一方で日本では、OS戦争から殆どの企業が撤退し、インターネットブラウザ検索エンジン開発など、多くの分野がすでに米国企業の後塵を拝していたため、投資対象となったのは、主に既存の通信・携帯電話関連株(NTT、ドコモ、KDDI)、コンピュータ関連株(NEC、富士通、東芝、ソニーなど)、半導体、通信ケーブル、あるいは光通信、大阪有線(現:USEN)、ソフマップなど新規上場株であった。

また日本国政府による起業支援、ストックオプションの規制緩和などが相俟ってベンチャーキャピタルが増加し、なかには詐欺まがいの問題企業も発生した(アイ・エックス・アイ。非上場では平成電電近未來通信など)。市況全体も投資の活発化により刺激され、トヨタやファナック、キヤノン、任天堂などといった主力銘柄の一部もそれなりの株価上昇が見られた。こうした中で、世界的なITバブルの最中であった2000年には、「IT革命」が流行語にもなった。

1999年全米証券業協会とソフトバンクがNASDAQ JAPANを発表。

日本のITバブルは長くは続かず、2000年(平成12年)3月に文藝春秋が光通信の携帯電話売買を巡る不正を報じたことをきっかけに、同社の株は20日間ストップ安で最高値の100分の1近くまで下落、他のネット関連銘柄もほぼ時期を同じくして大幅に値を下げ、日本のネットバブルはあっけなく崩壊した。

しかし、日本の経済は、1991年平成3年)のバブル崩壊以来の平成不況就職氷河期が続いており、IT関連投資が部分的だったため、米国を中心としたITバブル崩壊の日本への影響は極めて限定的だった[1]

文献情報

  • 「ITバブルの崩壊と2000年代の経済」野田哲夫(島根大学 情報化社会と経済2009年度共通教養科目)[1][2]
  • 「デジタルコンペティション」武石彰、ジェフリーLファンク(一橋ビジネスレビュー2004SUM)[3]
  • 「ITバブルの崩壊とテロ事件発生後の米国経済」ロバート・J・シャピロ(富士通総研EconomicReview2002.1)[4]
  • 「「IT革命」と「ITバブル」」篠﨑彰彦(2003年9月8日司法研究所平成15年度専門研究会 九州大学システムLSI研究センター)[5][6]
  • 「ITバブル崩壊後の米国経済の変貌」篠﨑彰彦(2004年2月23日九州クロスフォーラム 九州大学システムLSI研究センター)[7][8]
  • 「恐慌・不況の経済学」林直道(新日本出版社)[9]
  • 「インターネットバブル」アンソニーパーキンス兄弟(日本経済新聞)

脚注

  1. Software Design 2005年11月号

関連項目

外部サイト