イギリス史(現代 福祉国家の苦悩)

提供: miniwiki
移動先:案内検索

第二次大戦においてイギリスは36万の死者を出したほか、ドイツ空軍の爆撃によってロンドンをはじめとする都市も大きな被害を受けた。かつてビクトリア朝の黄金時代に蓄積された国富を使い果たし、おもにアメリカ合衆国からの多額の借金を背負うことになり、平和は回復したものの、その前途は多難を予想させた。

いったん転落した労働党は、しばらくの間雌伏を余儀なくされたが、その主流派は一貫して反ファシズムの姿勢を守り続け、第2次世界大戦が勃発すると、保守党のチャーチルからの政治休戦の申し入れを受諾し、クレメント・R.アトリー、アーネスト・ベビンら党首脳が挙国一致内閣に参加して、戦争指導の一翼を担った。しかしドイツに対する勝利が確定すると、ただちに内閣から労働党員閣僚を引き揚げ、戦争によって延期されていた総選挙に備えた。

1945年7月に行なわれた総選挙においてイギリス国民は、393対213の大差で戦勝のヒーロー、チャーチルを見捨てて、戦後の政局を労働党にゆだねた。結党以来初めて社会主義に立つ政策を実現する機会に恵まれた労働党は、戦時中の耐乏生活によって進められた平等化の基盤に立って、産業の国有化と社会保障の充実を基本政策に掲げて、戦後の再建に着手した。前者については、イングランド銀行、鉄鋼業、炭鉱業、鉄道、海外通信、鉄道、民間航空、電気およびガスの供給などの国有化を進め、後者についても、1946年の国民保険法によって「揺籃から墓場まで」と称される画期的な福祉国家建設をはかった。

しかしながら6年にわたる戦争で国力を使い果たしたイギリスにとって、このような政策を実現させるには、多大の困難がつきまとったため、国民は戦時中にもまさる耐乏生活を強いられることになった。社会福祉の負担に耐えられないほどイギリス経済が弱体化していたこと、しかもこの福祉国家の建設期が冷戦による緊張の激化した時期にあたっていたことが、第2次世界大戦後のイギリスの政治の動向に深刻な影響を及ぼした。

イギリスの経済の復興にはマーシャル・プランによるアメリカからの巨額の借款が必要であった。しかも1949年以来、世界の景気後退をうけてイギリス経済の危機も深刻化し、北大西洋条約機構(NATO)の一員として冷戦に対応するための軍備を強化しなければならないことが、社会福祉の充実に制約を課した。1951年の総選挙では保守党が勝利して、チャーチルが返り咲いたが、保守党も、労働党が推進した国有化と社会福祉の二大政策は継承したものの、再軍備はますます強化され、1952年10月には原子爆弾の実験を行ない、核保有国となった。しかし戦後の耐乏生活を耐え抜いた国民は、ようやく「繁栄の50年代」を享受することができるようになり、それを象徴するかのように1953年6月、エリザベス2世の戴冠式が祝われた。