アルメニア
- アルメニア共和国
- Հայաստանի Հանրապետություն
- 国の標語:Մեկ Ազգ , Մեկ Մշակույթ
(アルメニア語: 一つの国家、1つの文化)
公用語 | アルメニア語 |
---|---|
首都 | エレバン |
最大の都市 | エレバン |
独立 - 日付 | ソビエト連邦より 1991年9月23日 |
通貨 | ドラム (AMD) |
時間帯 | UTC +4(DST:なし) |
ISO 3166-1 | AM / ARM |
ccTLD | .am |
国際電話番号 | 374 |
アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、テンプレート:Lang-hy)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。
Contents
国名
正式名称はアルメニア語(アルメニアアルファベット)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。
英語の公式表記は、Republic of Armenia。通称、Armenia。
日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニア。
アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ[2][3]。
正式名称Hayastani Hanrapetut'yunの語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語スターン (地名)から来ている[4]。 アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
歴史
先史時代にはクラ・アラクセス文化があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていた。
紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。
1世紀頃にはキリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える(カエサリアのエウセビウス(260–339年)『教会史』)。
405/406年、アルメニア文字がメスロプ・マシュトツ(361–440)によって創始された。
その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り(en:Persian Armenia)、更にアラブの侵攻を受けるが(en:Ostikanate of Arminiya)、9世紀半ばにはバグラト朝が興り(en:Kingdom of Armenia (Middle Ages))、独立を回復。
しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia)、en:Zakarid Armenia、モンゴル(en:Mongol Armenia)・ティムール朝(en:Turkmen Armenia)などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった[6]。
1636年にアルメニアはオスマン帝国(en:Armenians in the Ottoman Empire)とサファヴィー朝ペルシア(en:Armenians in the Persianate)に分割統治された。
1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア領となる。
19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。
ロシア革命後に民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立されるが、赤軍の侵攻により崩壊し、1920年にアルメニア社会主義ソビエト共和国が成立した。1936年まではザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成していた。
1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展した。
1991年にソ連保守派のクーデターが失敗した為、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立を遂げた[7]。10月17日、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝した。
しかしカラバフを巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いている。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟、同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅しアルメニアは晴れて独立国家となった。
政治
政体は共和制である。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。
一院制の国民議会があり、任期が4年である。定数は131議席で、その内、75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制。(2012年時点)
州知事と大都市の市長は、任命制である。
新憲法民主化制下で
1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。
1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領のレヴォン・テル=ペトロシャンが再選される。
1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い、大統領選挙が行われ、ロベルト・コチャリャンが選出される。1999年10月、国会内で首相、国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった(アルメニア議会銃撃事件)[8]。
その後、概ね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど一時、政情が不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任、その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する改憲を成立させた。2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に議会選挙が行われたが、最大野党のニコル・パシニャン党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対、否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都エレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキを行うなど、政情が不安定になっている。
国際関係
ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと対立している。トルコとも歴史認識を巡って対立していたが、2009年10月10日にスイスでトルコとの国交調印式が行われた。
地方行政区画
アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。
- アラガツォトゥン地方 (Արագածոտնի մարզ)
- アララト地方 (Արարատի մարզ)
- アルマヴィル地方 (Արմավիրի մարզ)
- ゲガルクニク地方 (Գեղարքունիքի մարզ)
- コタイク地方 (Կոտայքի մարզ)
- ロリ地方 (Լոռու մարզ)
- シラク地方 (Շիրակի մարզ)
- シュニク地方 (Սյունիքի մարզ)
- タヴシュ地方 (Տավուշի մարզ)
- ヴァヨツ・ゾル地方 (Վայոց Ձորի մարզ)
- エレバン (Երևան)
地理
アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1000〜3000メートルであり、3000m級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。
国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通りアララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラス川(アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800m以上。一万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。
中央部にセヴァン湖(標高1900メートル、深さは36〜80メートル、高山の淡水湖、ここで採れる魚は「イシュハン・ヅーク(魚の王子さま)」と呼ばれる)が存在する。 森林は少なく、急流となった小規模な河川が多い。森林地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。
隣国のトルコやイラン同様、地震が多い。1988年に発生したアルメニア地震では2万5千人もの死者を出した。
鉱物資源に富み、鉄鉱石、ボーキサイト、最南部ので銅、亜鉛、モリブデンが産出する。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布する。
気候
気候の特徴としては、日照時間が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2711時間で、40度を超える時もある。ケッペンの気候区分によると、低地はステップ気候 (BS)、高地は亜寒帯湿潤気候 (Df)である。低地は雨が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200〜900ミリである。
首都エレバンの平均気温は11.4℃、年降水量は318mm。1月の平均気温は-5.5℃、8月は25.5℃である。しかしながら高地に位置すること、冬季に前線が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても-25℃から40度まで気温が変化する。
主な都市
- エレバン - アルメニアの首都であり、世界最古の都市の1つでもある。北緯40度10分、東経44度31分に位置する。人口約106万人(2004年)
- クマイリ - 第2の都市で、人口は21万人。
- ヴァナゾール - 人口17万人の第3の都市。
経済
IMFの統計によると、2013年のアルメニアのGDPは104億ドルである。一人当たりのGDPは3,173ドルで、南コーカサス3国の中では最も低く、世界平均の約30%の水準に留まっている。[1]
主要産業は、農業、工業、宝飾品加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は、国民の8%に過ぎない。農業では綿、ぶどう、野菜の栽培が盛ん。穀物としては小麦と大麦を産する。
アルメニアは新生代、中生代の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。このため、規模は小さいものの貴金属を産する。鉱物資源は金(2003年時点の採掘量は1.8トン)、銀(同4トン)、銅(同1.8万トン)である。
アルメニアはエネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震の後、独立後の1995年まで6年半に渡って閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されているロシア型加圧水型原子炉440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成を目処にロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。
国民
住民の大半はアルメニア人(97.9%)。他にロシア人(1%)クルド人(1%)アッシリア人(0.1%)公用語はアルメニア語。旧ソ連の構成国であったこともあり、ロシア語も幅広く通用する。他に少数民族として、アゼルバイジャン人も存在する。
アルメニアの賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外、特にアルメニアの3倍の賃金を得られるロシアに、季節労働者として出稼ぎに行く事が多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて外国に出ていく。就労先の国で家庭を持つ男性も多く、そのためアルメニアは人口が減っており、1991年のソ連崩壊時に350万人だった人口は2014年時点で300万人となっている[9]。
宗教
宗教では、非カルケドン派のひとつであるアルメニア教会の信者が大部分を占める。ほかにギリシャ正教やカトリックの信徒がいる。301年に世界ではじめてキリスト教を国教化したことで有名。
少数民族であるクルド人やアゼルバイジャン人の多くはイスラム教を信仰し、クルド人の中にはヤズディ教の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人であるヘムシン人と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。
教育
教育制度は、5、6歳までの幼稚園や保育園、6、7歳から中等教育(10、11年制。小学校にあたるのが1、2、3年生、中学校にあたるのは4、5、6、7、8年生、高等学校にあたるのが9、10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は大学である。義務教育期間は中等教育の8年生までで、授業料無料で、全国に1439校ある。(2003年現在)[10]。
2011年には小学校でのチェス学習を義務化している。
文化
古くからワインの製造が盛んで、特にブランデーは有名。アルメニア・コニャックと呼ばれる。
アルメニア語は、インド・ヨーロッパ語族の仲間で、印欧祖語から派生したといわれている。
石の建造物
石が古くから使われてきた。紀元前9〜8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。エレバンのバザールやトゥマニヤン記念館はアルティクで生産された凝灰岩(トゥフ)でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の花崗岩である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、ジェノサイド犠牲者碑のモニュメント、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の玄武岩でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な大理石で飾られている[11]。
音楽
食文化
映画
スポーツ
サッカーで、国内リーグであるアルメニア・プレミアリーグがある。あまりA代表では名を残したことはないが、2016年夏、当時ドルトムント所属だったヘンリク・ムヒタリアンがマンチェスター・ユナイテッドへと移籍し、アルメニア初のイングランド上陸選手となった。なおムヒタリアンは1991年にソ連から独立してからの歴代得点王である。
世界遺産
世界遺産として3カ所の文化遺産が指定されている。991年に創建されたハフパット修道院とサナヒン修道院、4世紀に創立したゲガルド修道院とアザト川上流域、4世紀に建立されたエチミアツィンの大聖堂と教会群およびズヴァルトゥノツの考古遺跡がある。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Ամանօր | |
1月6日 | クリスマス(ユリウス暦基準) | Սուրբ Ծնունդ | 12月31日からクリスマス休暇。 |
1月28日 | 軍隊の日 | Հայոց բանակի օր | |
4月7日 | 女性と母性の日 | ||
4月24日 | 虐殺の犠牲者の記念日 | Եղեռնի զոհերի հիշատակի օր | 1915年–1922年のトルコ政府による虐殺 |
5月9日 | 戦勝と平和の日 | ||
5月28日 | 1918年の共和国の日 | I Հանրապետության օր | |
7月5日 | 憲法の日 | Սահմանադրության օր | 1995年に憲法が制定されたことを祝す。 |
9月21日 | 独立の日 | Անկախության օր | 十字架挙栄祭と同一 |
12月7日 | 1988年大地震、犠牲者の記念日[12] |
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.
- ↑ 伝説ではこのハイ族の族長アルメナケが一族を率い、自らを王と名乗り、一族をアルメニア族と名乗った事が、アルメニアの起源とされている
- ↑ 造山運動に伴う火山活動でできた石が豊富であり、石の国=カラスタンとも呼ばれる(中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年 20ページ)
- ↑ Armenica.org:Chronology
- ↑ そのため、エルサレムの聖墳墓教会の塗油台の壷は特別に2個おく事が認められている。他は、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五大総主教座(ローマはカトリック教会、残りは東方正教会)、及び、コプト教会のアレクサンドリア総主教座が各1個。合計8個
- ↑ その中の一部は11世紀にトルコ南東部のキリキアに移住しキリキア・アルメニア王国を建国、14世紀末まで独立を保った
- ↑ 9月21日、「アルメニアの独立」は、国民投票で承認された。
- ↑ 吉村貴之「アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か」、『アジ研ワールド・トレンド』第8巻第4号(通巻第79号)、アジア経済研究所広報部、2002年4月、 30頁、 ISSN 13413406、 NAID 40005089033。
- ↑ Anaïs Coignac (2014年1月28日). “男だけが消えた 旧ソ連の小さな国”. ニューズウィーク . 2014閲覧.
- ↑ メラニア・バグダサリヤン「教育問題」/ 中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年
- ↑ 中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年 20–21ページ
- ↑ 家屋などの倒壊により約2万5千人が死亡、被災地支援に向かった軍用輸送機Ил-76が墜落、兵士69人を含む78名全員死亡。
関連項目
外部リンク
- アルメニア共和国政府 テンプレート:Hy icon(英語)
- アルメニア大統領府 テンプレート:Hy icon(英語)
- アルメニア駐日大使館 (英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - アルメニア (日本語)
- 在アルメニア大使館 (日本語)
- 観光
- アルメニア政府観光局 (英語)
- アルメニアの建築
- テンプレート:OIF