ゆく年くる年 (民間放送テレビ)

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ゆく年くる年』(ゆくとしくるとし)は、日本民放各テレビ局で1956/1957年から1988/1989年まで生放送されていた年越し番組である。

本番組終了後の民放各局の動向については「年越し番組」の項を参照のこと。

番組内容

在京キー局が輪番制で年越し向けの番組の制作に当たり、それを全国の民放テレビ局が同時放送していた。終了当時、民放全局フルネットの番組はこの番組と放送広告の日(現:民放の日)の特番および「民放連会長あいさつ」のみである。毎年、あるテーマに沿った内容で全国各地からの中継を展開していた。新聞・雑誌の番組表も、局と局の間の線を無くして長めの表になっているものがあった。

第1回放送から最終回まで一貫してセイコー(服部時計店→服部セイコー→現在)の一社提供だった。そのため、カウントダウンや時報には同社の時計が使用されていた。また、年越しの瞬間に同社の関連施設である東京銀座和光の時計台がバックに映っていたことがあった。

テレビ放送では1988/1989年の放送を最後に民放連との共同制作は終了。結果的に、昭和最後の年越しが最終回となった。最後に制作したのはテレビ朝日であり、例年どおりなら次回はテレビ東京の順番であった。クロスネット局が次第に減少していった影響もあり、1989/1990年からは各放送局で独自の内容の年越し番組を制作・放送している[1]

この民放テレビ版放送の第1回は、日本テレビラジオ東京テレビの共同制作であった。なお、フジテレビは、しばらくはこの民放テレビ版放送の制作・放送には加わらず、同じセイコーからの提供番組でありながら独自の番組を放送していたが、その後1971年にようやく民放テレビ版に参加し[2]、これをもって民放テレビ全局放送復活となった。また、東京12チャンネルは他局制作分の番組を流すだけの受け局だったが、1974年に制作へ初参加した。

特筆すべきものとして、1980/1981年の日本テレビ制作のものは『ズームイン!!朝!』に近い形となったほか、1987/1988年のフジテレビ制作のものはJNN加盟局があるにも拘らずニュースが放送された(JNN系列局は、他系列の制作したニュースを放送してはならないという「JNN排他協定」がある)。また、1984/1985年のテレビ東京制作のものは、系列局が少ないものの、午前0時前後に全国各地の映像を入れていた(ただし、生中継かどうかは定かではない)。

現存映像

当番組は原則として生放送であり、更に当時の放送用2インチビデオテープは高価だったため、現存する映像は1967/1968年(日本テレビ版)、1969/1970年NET版)、1970年/1971年(日本テレビ版)のモノクロ・キネコ版と、1975/1976年(日本テレビ版)のVTRが残っているだけである。

これらの内、1986年に『テレビ探偵団』(TBS系列)のワンコーナー「私だけが知っている」で「年末番組特集」を行った時は、1967/1968年版を放送、番組では、1967年内で植木等が軍人に扮して「これでインヘラー!」(当時日本ヴィックスが発売していた「インヘラー」のCM、植木が言ったギャグ)を言ったコントや、和光・時計台前での「蛍の光」合唱(合成は使用せず)による年越し瞬間、年越し同時に始まったスタジオでのダンスなどが放送された。

'80年未来をこの手に!

1979/1980年の『ゆく年くる年』に続いて、東京放送(現・TBSテレビ)が幹事局となって、当番組の事実上の第2部として『'80年未来をこの手に!』がライオンの単独協賛にて全局で放送されたが、びわ湖放送においては当時、リン含有の合成洗剤が環境破壊に影響するという理由で、大株主である滋賀県の理解を得られなかったとして放送中止となった。

年表

旧年 新年 制作局 ネット局数 総合司会者 テーマ 備考
01 1956年 1957年 日本テレビ
ラジオ東京テレビ
004 日本テレビラジオ東京テレビ中部日本放送大阪テレビ[3]の民放テレビ4局全局同時ネットで番組放送開始。
02 1957年 1958年 (不明) 005 北海道放送開局で初参加。
03 1958年 1959年 (不明) フランキー堺 23時40分よりラジオ・テレビ同時放送。
04 1959年 1960年 日本テレビ フランキー堺
朝丘雪路
NETテレビ初参加
05 1960年 1961年 TBS
06 1961年 1962年 日本テレビ 040 秋山ちえ子 地方局が続々と開局。40局ネットとなる。
07 1962年 1963年 TBS 坂本九 ドキュメンタリー・ドラマ風。
08 1963年 1964年 NET 森繁久彌 日本を謳う 安部公房が番組の構成を担当。
09 1964年 1965年 日本テレビ 三木鮎郎
小島正雄
坂本九
植木等
タイトルは「ゆく年くる年・スタープレゼント」。三船敏郎石原裕次郎などのスターがスタジオに集合。
10 1965年 1966年 TBS 山村聰 おめでとう日本列島 「ゆく年くる年」は副題。
11 1966年 1967年 NET 木島則夫
小林桂樹
おめでとう若い日本 「ゆく年くる年」は副題。
12 1967年 1968年 日本テレビ 坂本九
吉永小百合
おめでとう'68年 「ゆく年くる年」は副題。各地の風景・未来の夢・日本の現実・建設の4つがテーマ。
13 1968年 1969年 TBS 043 古谷綱正
池内淳子
沢田雅美
にっぽん・ゆく年くる年 東京12チャンネル初参加。43局ネット。
14 1969年 1970年 NET 052 竹脇無我
栗原小巻
あなたと僕の握手 万国博会場から『世界の広場で』の大合唱。
15 1970年 1971年 日本テレビ 058 高橋圭三
ザ・ドリフターズ
全員集合!! 71年夢いっぱい 大阪天満宮の初詣。関門橋建設現場などから中継。
16 1971年 1972年 TBS 083 堺正章
井上順之
コント55号
ザ・ドリフターズ
笑い初めだョ! ゆく年くる年 フジテレビ系列初参加。民放テレビ83局全局同時ネットとなる。代々木第2体育館をメイン会場とし、3000人を招待する公開放送を初めて行った[2]
17 1972年 1973年 フジテレビ 086 小川宏
高峰三枝子
若さでいこう ゆく年くる年 各局の人気番組のタレントを番組のままの服装で登場させ、ミニドラマを展開。
18 1973年 1974年 NET 高島忠夫
黒柳徹子
人と社会と自然のふれ合い 全国各地から生活に密着した6つの素材を選んで構成。
19 1974年 1975年 東京12チャンネル 087 石坂浩二
うつみ宮土理
豊かな明日のために 古き良き物と新しい物を中継。男鹿半島なまはげなど。
20 1975年 1976年 日本テレビ 089 高島忠夫
仁科明子
みんなと話そう 人間同士の対話を取り戻し、絆を強く結び直すことがテーマ。
21 1976年 1977年 TBS 田宮二郎
山口百恵
愛してますか あなたは… スタジオを使わず、司会者も外からの中継。
22 1977年 1978年 フジテレビ 渥美清
夏目雅子
露木茂
世界とともに 世界各国の街の表情や、日本国外で活躍する日本人をリポート。
23 1978年 1979年 テレビ朝日 091 萩本欽一
檀ふみ
ふれあいを求めて 1979年が国際児童年のため、この趣旨に沿った話題で進行。
24 1979年 1980年 東京12チャンネル 093 関口宏
浅茅陽子
愛と祈り 市川崑が総監督を担当。増上寺経蔵テレビ初公開。大井川鐵道SL中継。
25 1980年 1981年 日本テレビ 094 渡辺謙太郎
金子勝彦
露木茂
溝口泰男
徳光和夫
だから日本が好き! 新宿鶴ヶ城富士山五合目、宇高連絡船などから中継。また、主体の司会5人は各民放の看板アナ(溝口はフリー)が登場。
26 1981年 1982年 TBS 096 古谷一行
中原理恵
星野知子
21世紀への旅立ち 20年後の世界に目を向け、2001年は世界がどう変わっているかを展望。
27 1982年 1983年 フジテレビ 099 小川宏
ビートたけし
俵孝太郎
ジャイアント馬場
田丸美寿々
だから! より人間らしく 同番組初のステレオ放送。「ゆく年」の15分間は日本列島各駅からの中継。「くる年」になる午前0時の15秒前からは、この年(1983年)に開園する東京ディズニーランドから生中継を行った。
28 1983年 1984年 テレビ朝日 102 武田鉄矢
名取裕子
信じることからはじめよう ネット局が100局突破(民放テレビ102局全局同時ネット)。中継レポーターに荻野目慶子ら。コンピューターグラフィックスによる正零時の時報。
29 1984年 1985年 テレビ東京 市川猿之助
桂文珍
中井貴恵
未来、それはいま オープニングは歌舞伎座から中継。猿之助自ら企画・構成・演出。
30 1985年 1986年 日本テレビ 103 加山雄三
徳光和夫
日本・きた道ゆく道 1985年開局のテレビせとうちが初参加、最終回まで続く局数となる。新しく竣工したばかりの両国国技館から生放送。
31 1986年 1987年 TBS 仲代達矢
大地真央
小泉今日子
おーい! 愛しの地球よ ソウル長崎オランダ村本部半島などから中継。
32 1987年 1988年 フジテレビ 逸見政孝
笑福亭鶴瓶
榊原郁恵
時を見つめて 瀬戸大橋青函連絡船などから中継。
33 1988年 1989年 テレビ朝日 西田敏行
富田靖子
小宮悦子
好きです輝いてるあなたが 最終回。33年の歴史に幕。民放テレビ103局全局同時ネット。

ネット局に関する補足

  • 第1回がネットされた局は4局であった。そのネット当時・現在の双方の系列で見ると、ネット当時では日本テレビが日本テレビ系列・TBS(ネット当時はラジオ東京テレビ)がTBS系列(ネット当時はラジオ東京テレビ系列)・CBCテレビ(ネット当時は中部日本放送)と朝日放送(ネット当時は大阪テレビ)の2局がTBS系列(ネット当時はラジオ東京テレビ系列)と日本テレビ系列のクロスネット局であったが、現在では日本テレビが日本テレビ系列・TBSとCBCテレビの2局がTBS系列・朝日放送がテレビ朝日系列である。
  • 最終回にあたる第33回がネットされた局は103局であった。そのネット当時・現在の双方の系列で見ると、ネット当時の局数ではTBS系列が25局・日本テレビ系列のフルネット局が20局[4]・フジテレビ系列のフルネット局が21局・テレビ朝日系列のフルネット局が12局・テレビ東京系列が4局・クロスネット局が10局[5]・独立局(当時は独立UHF放送局)が11局であったが、現在の局数ではTBS系列が25局・日本テレビ系列のフルネット局が24局[6]・フジテレビ系列のフルネット局が23局・テレビ朝日系列のフルネット局が13局・テレビ東京系列が4局・クロスネット局が3局[7]・独立局が11局である。

脚注

  1. このことを「気まぐれコンセプト」がネタにしたことがある。内容は、地方局のマスター担当者が例年の当該時間になって今年のキー局はどこだと慌てふためくという内容。
  2. 2.0 2.1 日本民間放送連盟(編) 『日本放送年鑑 昭和47年度版』 テレビ企画、1972年、38-39頁。 
  3. 現在の朝日放送
  4. マストバイ局が13局・非マストバイ局が7局。
  5. 2系列が8局・3系列(トリプルネット局)が2局。
  6. マストバイ局が19局・非マストバイ局が5局。
  7. 2系列が2局・3系列(トリプルネット局)が1局。