お笑いタレント
お笑いタレント | |
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基本情報 | |
職種 | エンターテインメント |
業種 | 芸能人 |
詳細情報 | |
就業分野 | テレビ番組、舞台など |
関連職業 | コメディアン、落語家 |
お笑いタレント(おわらいタレント)は、主にテレビ番組において面白い言葉の表現や、体や顔の表情の面白い動きなどで視聴者や観客を笑わせる役割を担うタレントの総称。お笑い芸人(おわらいげいにん)とも呼ばれる。「お笑いタレント」と呼ばれる人物は、おおむねコメディアン、落語家・漫才師/漫談師・コント俳優・声帯/形態模写芸人・マジシャン・コミックバンドメンバー、歌手などの芸域のどれかに属する。
バラエティ番組におけるお笑いタレントは、司会者やそのアシスタント、レポーター、クイズの解答者などの立場で出演し、あからさまな嘘をついたり、意図的に非常識な態度や発言や行動をしてみせたり、意味のわからない態度や発言や行動をしてみせたりすることで、笑いを誘発する。これにより視聴者に対し、番組進行のテンポ的起伏、番組で扱う事物への客観性、番組内容への感情移入のしやすさなどを提供する。
なお、この分野に造詣の深い作家・小林信彦は、著書「喜劇人に花束を」他において、「お笑い」という言葉は「お笑い草」などと同様に侮蔑のニュアンスを含む、当事者が卑下して使うものであり、第三者が用いるのは非礼にあたるという見解を示しているが、このスタンスは現在のところ大きな広がりに至っていない。
歴史
「お笑い芸人」「お笑いタレント」という呼称は、日本国内のテレビの普及に伴い、本来舞台をはじめとする多くの場所で様々な分野で活動してきた人々がテレビのバラエティ番組に活動の比重を移すにつれ、彼らを総称する呼び方が必要になったため生まれた。
したがって、お笑い芸人の走りはテレビ放送が始まった当初から存在した。当時はほとんどが漫才師と呼ばれる2人組で漫才をしたり、数人のグループでコントを行ったりして、笑いを取っていた。関東では占領下でジャズ・バンドを結成していたバンドマンたちがコミック・バンドに転じてさらにテレビでコントを披露するようになったり(ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズ等)、浅草を地盤とする芸人たちがコントを中心に活躍しテレビにも進出していった(コント55号、ツービート等)。1970年代ごろになると関西の吉本新喜劇や松竹新喜劇などで、藤山寛美、間寛平のように大舞台で演技する多数のコメディアンが一世を風靡した。のちに、これらがお笑い芸人として活躍することになる。漫才界ではいとし・こいしなどがテレビに登場するなど、お笑いを取る芸人として活躍する。
1980年代中盤には漫才ブームが発生した。フジテレビ系列『オレたちひょうきん族』では、複数のコントから構成されるため、出演する芸人がベースとする演芸の領域を超える内容となっていた。必然的にこれらの領域は(特に漫才/漫談とコントの間で)ボーダーレス化し、やがて一括して「お笑いタレント」「お笑い芸人」 という言葉で総称されるようになった。 「ひょうきん族」以降、お笑いタレントの主な活動拠点は演芸場からテレビに移っており、その結果、持ちネタや持ち芸を披露する機会は少なくなり、本来の職分である芸人としての彼ら自身と、一般視聴者との中間的存在であることが求められるようになった。 この過程で漫才師出身のビートたけしや形態模写出身のタモリ、落語家出身の明石家さんまのように、本来の芸域の痕跡を喪失したお笑いタレントも見られるようになった。
お笑いタレントというカテゴリーが確立して以降、NSCなどお笑い芸人養成学校が開校したり、インディーズ出身のお笑い芸人が出現し、隆盛するにつれ師弟制度が衰退した。また、先輩・後輩関係は年齢に関係なく芸歴を基準とされており、後輩は先輩に対して敬語を使うことが義務づけられる風潮があるが、プロダクションやメディアの多様化によって現在はやや緩和されている。
特に吉本興業、松竹芸能などの大手は今でも芸歴での基準を継続させており、養成所へ同時期に入っても一日でもデビューが早い方が先輩となり、当然敬語を使わないといけない[1]。ただし他事務所の同い年の芸人に対しては、芸歴が浅くても当人同士が良ければ相応の対応も見られる。
また、バラエティ番組などで、司会者や出演者が漫才や落語の大物芸人に対しての敬称として「師匠」を付けることが一般的となっている(こういう人物の場合は往々にして志願して来た弟子がいる)。
傾向
バラエティ番組に多く出演し、それなりの芸歴になるとネタをしなくなる傾向があり、劇場付きの芸人、若手はネタ見せをするが、テレビが活動の中心になると年末年始の特番か、笑点の演芸コーナー程度になる。だが、爆笑問題、さまぁ〜ずなどベテランとなっても定期的にライブを行ったり、テレビ番組などでネタを披露したり、作品をリリースすることに拘るお笑いタレントもいる。
お笑いタレントを目指す者は数多くいるが、デビューしてもテレビ番組に出演できるお笑いタレントは少数の厳しい世界である為デビューして後、出世・成功したお笑いタレントは、ほんの一握りである。また収入も安定していないため、挫折や苦労する者が多い。ずっとお笑いタレントでいられる保証もなく一時的には第一線で活躍していたお笑いタレントでも現在はほとんど仕事がない人もいる。
売れても休みもほとんどもらえず、若手だけでなくそれなりに顔が売れている中堅芸人でさえも休暇を請求するとマネージャーなどにお叱りを受ける。また過労やアクシデントで負傷しても個人事業主の為、サラリーマンの様な福利厚生は受けられず自己負担となる。
お笑いタレントとして夢破れてから放送作家に転身する者もいる。また、世界のナベアツのように、芸人と放送作家の二足のわらじで活動するものもいる。
近年のお笑い芸人は志向が変わり、おぎやはぎによれば昔は司会者や冠番組を持とうと殺気に満ちていたり、ライバル意識丸出しの芸人ばかりだったが、最近では2番手やいわゆる雛壇芸人志望で、丸く収め安定志向と言う芸人が多い[2]。
司会業
1980年代頃から、お笑い芸人の司会業への進出が目覚しい。これをフジテレビジョン編成制作局バラエティ制作センター部長の吉田正樹は「お笑いブーム以降、テレビ局にお笑いのテイストが欲しいと考えられた」と語っており、加えて「90年代に吉本興業が本格的に東京進出してから、芸人がMCを務めるという関西の文化が輸入されたのではないか」と吉本興業の存在が深く関っていると述べている。一方、芸人はより上を狙う意味で番組を仕切る司会者を目指す人が多い。制作者側と芸人本人のニーズが合致した結果、芸人が司会を務める事が多くなってきた[3]。
事務所
- 多数のお笑いタレントを抱える事務所としては、大阪のよしもとクリエイティブ・エージェンシーや松竹芸能、東京ではワタナベエンターテインメントや浅井企画、太田プロダクション、オフィス北野、プロダクション人力舎、ホリプロコム、マセキ芸能社などが挙げられる。また、サンミュージックプロダクション、ソニー・ミュージックアーティスツ、オスカープロモーションなどの異業種からの参入も目立つ。
脚注
- ↑ 吉本や松竹においても、稀に例外が存在する。例えば今田耕司は、年下だが芸歴が2年先輩の吉田ヒロに対して呼び捨てし、タメ口で接しているほか、オセロの松嶋尚美は芸歴無視で完全に年齢順で上下関係を判断して接しているため、先輩のよゐこやTKOに対して「君」付けをしている。しかし、このような例は、当事者同士がよほど親しくてお互い理解を示しているか、本人のキャラクター性が極めて強くない限り許されることがないのが通常である。
- ↑ 2010年10月14日放送回『おぎやはぎのメガネびいき』(TBSラジオ)でのおぎやはぎの発言より
- ↑ 「エンタ業界の大疑問100 Q2「大物芸人が司会者になる理由は?」」、『日経エンタテインメント!』第10巻第15号、日経BP、2006年10月、 pp.28。
参考文献
- 江戸前で笑いたい 志ん生からビートたけしへ 高田文夫編纂。中公文庫。
- 毎日が大衆芸能 娯楽・極楽・お道楽 高田文夫。中公文庫。
- 日本の喜劇人 小林信彦。新潮文庫。
- お笑い研究サイト-笑安